人類の永い歴史の中で、どの時点、どの場所で「象嵌」という技法が産まれたのか、はっきりとした手掛かりはないものの、オリエント文明の中心、シリアのダマスカスが発祥の地と言われている。ツタンカーメン椅子
現存する木象嵌のもっとも古いものは、エジプトのツタンカーメン王の副葬品であったスツールであり、カイロのエジプト美術館に展示されている。

この頃にはすでに象嵌の高い技術の確立が見て取れ、この技術が「高貴なひとのためのと別なもの」として発展したことがわかる。

その後世界のあちこちで作られるようになった木象嵌は、あちこちに産地を作り出しながら、それぞれの場で独自の文化を作り上げていく。
今なお産地として有名な場所は、スペインのトレドや北イタリアで、主には家具などに代表される高価な装飾品としても有名である。

やがて長い時を経て、木象嵌はシルクロードを通ってこの日本にも伝来する。
正倉院には、飛鳥時代に伝えられた木象嵌の作品が収められており、有名なものとして「木画紫檀槽琵琶(st2012_04もくがしたんのそうのびわ)」「木画紫檀雙六局(もくがしたんのそうすごろくきょく)」などがある。この時代には、木象嵌は「木画(もくが)」と呼ばれていたことがわかる。

この後、「木画」の技法は衰退を辿るようになるのだが、この原因については諸説あり、「遣唐使廃止に伴う原料の輸入がこんなんになったため」、「漆の普及により螺鈿(らでん)細工や蒔絵(まきえ)が発展し、その豪華さが木画を凌駕したのではないか」とも言われているが、定かではない。

やがて、細々とだけ伝えられていた木象嵌の技術は、鎖国から開国へと向かう江戸末期から明治初期にかけ、突然脚光を浴びることになった。これは西村荘一郎ら当時の象嵌師達が、正倉院の宝物を研究し、万国博覧会などの国内外の博覧会に積極的に出品したことにより、その美術工芸品としての地位を確立していったのである。

一方で、この流れとは無縁に、明治の中頃にはもう一つの木象嵌の世界が箱根の地に根付き始めていた。このもう一つの流れは、箱根という限られた地域の地場産業というかたちで発展し、今日まで職人と呼ばれる人々に支えられて、「寄木細工」と共に「箱根細工」という名で親しまれるようになった。
特に、ミシンを改造した糸鋸機械(いとのこきかい)や特殊な鉋(カンナ)の発明により量産が可能となったため、土産物や海外への輸出雑貨として多く作られ、現在に至っている。