この夏、初めて出品したこの木象嵌の箱が「第66回日本伝統工芸展」に入選することができました。

そもそも「日本伝統工芸展」とはどんなものなのでしょうか?

工芸展を主催する、日本工芸会のホームページでは、
『日本伝統工芸展は、文化財保護法の趣旨にそって、歴史上・芸術上価値の高い工芸技術を保護育成するため開催される最大規模の公募展です。
日本工芸会は、このほかにも、重要無形文化財保持者を講師とする伝承事業や記録保存等を行うなど無形文化財(工芸技術)の保存・伝承及び公開に関する事業を推し進め、その実績では、他に比較するもののない唯一の組織です。』と、紹介されています。
第66回目という事で、66年間続いている公募展でもあります。

審査員、鑑査員のものすごい面々

 

何より、この工芸展のすごいところは、その審査員、鑑査員の層の厚みというか、審査・監査をする方々のすごさにもあると思います。重要無形文化財保持者(人間国宝)をはじめとしてその分野の第一線で活躍する作家、技術者、研究者はもとい、世界にも名が響くような美術館の館長、開催場所となる三越本店の担当者などが名前を連ねます。
言ってみれば、「モノを見る目」が別格の方々の集団とも言えるわけです。

よく「目利き」という言葉を使いますが、良いものであるかどうか、それがどれだけすごい技術をもって作っているのか、一目作品を見て判断できるということは、どれだけ多くの一級品を見てきたかという事にもよるのではないでしょうか。

「好き・嫌い」の判断は誰にでもできる事ですし、これは人間の本能的に感じる感情ですからとても大切なことではあります。
しかし、この感情による判断ではなく、客観的事実に基づき「手わざ」と呼ばれるものを判断することは、想像以上にとても難しく長い訓練を必要とすることは理解できると思います。

実際に人間国宝をはじめとする作家の方々は、自分自身の手によってモノづくりをしてきたその実体験から、作品を見ただけでどれだけの時間、苦労、手間をかけたか判断しているので、その「眼力」は想像を超えるものがあると思います。

ですので、見た目が「すごそう」な作品でも、そこにプラスして「一線を越える技」を使えているのかどうか、薄っぺらい外見ではなく深みのある技術の結集でできたものなのかどうか、そこは一瞬で見抜かれてしまう、作り手からは怖い怖い存在の審査員の方々なのです。

どうして今「伝統工芸」に挑戦するのか。

 

私はあちこちで書いている通り、小学生のころから木工家になろうと決めて、高校、短大、日本各地での木工修行、スウェーデンへの留学、と気が付けば人生のほとんどの時間を「木工」と名の付く勉強、仕事しかしてきませんでした。
いつも身近に「木」があり、頭の中では家具のことやノミ、カンナ、という道具のことばかりを考え、気が付けば手を動かして何かを作っているという時間がほとんどだったように思います。

スウェーデンに留学したことがきっかけで、スウェーデンの国家資格でもある「家具マイスター」の称号も得ることができました。
10年以上前のことになります。
その時に、やっと自分の培ってきた技術が「カタチ」として認められたという嬉しさがありました。
一定のレベルに達している「お墨付き」のようなものをもらえたという、自己満足とは違う、「きちんと認めてもらえる」実感がありました。

しかしその後もモノづくりを続けているうち、スウェーデンの資格は取ったけれど、果たして今の自分の技術は日本の中では如何ほどなのか?と思うようになってきたのです。

スウェーデンまで行って家具作りを学んだ自分が今度は、イメージ的には真逆の「和」の日本伝統工芸に挑戦するというのも、なんだかおかしな話ではないだろうか、という想いもありました。
そして、何とかマイスターまで取ったという実績に反し、応募して落選したら落ち込むし、ちょっとカッコ悪いよね、という逃げの自分もいました。
まずは自分の中のもう一人の自分との小競り合いから始まったと言っても過言ではないと思います。(苦笑)

でも、それはどこの誰も一緒のことで、そこから逃げていてはやはり前には進めません。
自分との戦いに答えが出て、「とにかく作ってみる」という私の挑戦が始まりました。

偶然と必然、出会いがもたらしてくれた「挑戦」への道

 

実は今回「日本伝統工芸展」に応募する以前に、その登竜門と言われる「東日本支部展」というものに2度応募していました。
何もわからないまま、インスピレーションのままに、先に書いたような「見た目はすごい」作品でした。(自分ではかなり頑張っていたので)
技術には問題はなかったと自負はあります。
気合をいれた作品でした。自信もありました。

でも落選しました。
理由を聞くために一度目は東京に赴き、講評を拝聴しました。
人間国宝の先生はみな猛烈に厳しく、これまで私が培ってきたものは本当に正しかったのだろうか、と打ちのめされるほどでした。
けれどもちろん温かい言葉をかけてくれる先生もいて下さりました。
何も知らない、勉強不足のままで挑戦していたことをこの講評会で知ったこと、そして厳しいと言っても当たり前のことを当たり前とはっきり言われただけのことだったのだど、時間が少し経ってから徐々にわかってもきました。

「何、くそっ!」
そう思って挑んだ2度目の東日本展でしたが、またまた落選の通知に肩を落としました。

何が悪いのか、どこが良くなかったのか、東京に講評を聞きに行けなかったこの時は、偶然にも審査員を務められていた山形天童市の吉田先生が札幌に来られることがわかり、市内でお会いすることが叶いました。

どんなことをおっしゃるのか、とドキドキでしたが、あっさりとおっしゃられたのは、「あれ(私の作品)、もう少しで賞も取れてたんだよね。技術じゃなくて板の厚みとか、塗装の臭いとか、そういうところでNGを申し立てる人がいたから落選したんだよね。」とのこと。
肩からストンと重い憑き物が落ちた気がしました。

自分の技術は、もうその一線に達していたんだ。

それはホッとするような、今の自分でいいんだ、とやっと気持ちが落ち着いた一言でした。

何より、伝統工芸の世界は高齢化が進み、挑戦する後継者がどんどん少なくなっているのが現状です。
「やる気」があるなら、とにかくがんばれ、がんばるしかないんだ。
そう、背中を押された気がしました。
吉田先生のお話は、本当にわかりやすく、優しく、審査員を務められる方なのに気さくでとても温かく、人柄のすべてが言葉からにじみ出ていました。

ご自分のテストピースも見せてくださり、テストなのにこのクォリティ?と目を疑うような狂気とも言える細かい作業の繰り返しでできていることが見てすぐにわかりました。

この時に、今までモノづくりをしてきた中でも本当にトップクラスの過酷なレースに参戦してしまったのだと思い知らされました。
中途半端なモノづくりでは、決して通用しない世界がそこにはあるのです。
もう逃げずに前を向いて行くしかない。そう思いました。

吉田先生とお会いしたその2か月後に、今回の日本伝統工芸展の出品締め切りが迫っていました。

恐らく自信のない人はこの公募展(コンペ)に参加しようとは思わないと思います。
全国の支部展が登竜門だとしたら、こちらは本選、決勝戦なのです。
ある程度の自負のある人が出すような、そんな格調の高さが前面に出ている公募展です。
だからこそ、講評会でこの歯に歯を着せぬものの言い方をする人間国宝の先生の厳しい言葉は、プライドや自信、自分の自負していたすべてを打ち壊すようなそんな強さがあるために、一度の落選で挫折していく人も多いと聞きます。

けれど、一線を越えたレベルの技術とは、決して甘いものではありません。
日々日々、打ち込んで打ち込んで、大げさに言えば「命を削るような仕事」をしてこそ、得られる厳しい道のりであることは間違いありません。
それは、これまでに入選、入賞してきた作品を見たり、何より人間国宝の先生が作った作品を見ればすぐにわかります。

最高の誉め言葉 「狂っている」

 

「狂ってるね。」と言われて喜ぶようになれば本物かもしれません。
人間国宝クラスの先生が作る作品は、どれもこの言葉にあてはまるからです。

人間の手で、こんな細かい作業ができるのか?
想像もつかないような細かい作業の積み重ね、それを支える揺るぎない技。
伝統工芸展で見られる作品は、本当にすべてこのようなものばかりと言っても過言ではないと思います。

そして先に書いた人間国宝クラスの先生の作品は、さらにその上を行っています。
それを作る先生がおっしゃることは、うわべだけではない、すべてに説得力に通じるものがありました。

迷いがあった私の背中を押してくださった方がもう一方いらっしゃいました。
2月に京都の茶会でお会いした、京友禅の森口先生(人間国宝)でした。
私の作品、風炉先屏風を見て、「落ちてもいいから、作品を出しなさい。
そして、必ず講評会に出席しに東京に来なさい。その時またお会いしましょう。」
そう言ってくださった森口先生の一言がずっと心に残っていました。
東京に行き、先生に「あの時のあれを作ったものです。」とお伝えしなければ、と勝手に思い込んでいたのです。
そして制作の日々は始まりました。

入選が決まり、出かけて行った東京は、まだ夏の余韻も残る暑さでしたが、私の心は本当に清々しいものでした。
一心不乱に作った箱でしたが、打ち込んだ甲斐がありました。
もちろん、講評会ではまた厳しく批評されてきました。(苦笑)
もうアラフィフの私も、伝統工芸の世界ではヒヨッコ同然、初めての入選くらいでは、審査員の先生方がも物申すことが多いようで本当にあれこれと言われてきました。

でも、誰にも分らないようなコツコツという自分の努力は、この先生方にはすべて理解してもらえている、そういう安心感もありました。
作り手の、たった一人での長い闘いを何年も何年も経験してきたこの方々のおっしゃることは、ただ一つだけのような気がします。

それは、「手をゆるめるな。」ということではないでしょうか。

作って、作って、手を動かし続けなければ、前には進まない、山の頂には決して届かないぞ、と鼓舞激励する言葉なのだと思います。

私もまだまだ挑戦を続けるつもりです。
まだスタート地点にやっと立ったようなところだと思っています。

そして最後に、どうしてもこのブログでお伝えしたかったこともあります。
苦しい道のりではありますが、人生をかける価値があるのもこの伝統工芸かもしれません。
若い方に、これからモノづくりを目指す方に、上辺だけの何となくのモノづくりではなくこの「道を極める」ことの素晴らしさをもっと知って頂き、挑戦する人が増えたらいいなと心から思います。
失ってはいけない大切なものが、この日本にはとても多いことをもっと知って頂ければと願います
伝統を知って新しいものを作り出す。
それが私のこれからのテーマかもしれません。

投稿者プロフィール

Akio Shimada
Akio Shimada
1971年生まれ。北海道苫小牧市出身。日本各地で木工修行の後、スウェーデンで北欧の木工技術を学び、2007年日本人として初めて「スウェーデン家具マイスター」の称号を得ました。高い技術を誇る木象嵌と家具の製作をしています。

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