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「木象嵌って、寄木細工の?ですか?」

よくこんな質問をお聞きします。木象嵌も寄木細工も、どちらも木を使った装飾工芸技法のひとつです。

でも、この二つは全く異なるものだということを、ご存知ですか?

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いろいろな点で異なるこの二つの技法ですが、同じようなもの、同義なものと誤解されていることが極めて多いのが現状です。

漢字を見ても、「象嵌」と「寄木」と、区別されてできた言葉と言うのがわかります。

では、具体的にどんな違いがあるのでしょうか?

漢字の意味を見ていくと、

「象嵌」・・・象(かたど)り、嵌(は)めるもの。地となる木を模様となる形にくり抜いて、そこにぴったりと違う木を嵌めて行く手法。木片を嵌めることで一枚の「絵」となっていく。

「寄木」・・・木片を寄せて集める、というもの。三角形や四角形など、ごく単純な形の木片を集めて模様の基本単位を作り、その基本単位を単独、または他の基本単位のものと組み合わせながら大きな模様に展開していく。簡単にいうと、金太郎あめの原理を使って、模様を組み合わせることで集合体としての「絵」となっている。

しかしながら、この二つはこのように製作の過程が全く異なるにもかかわらず、製品となったものを見た時にその区別が大変難しいことから、同じものと誤解されやすいのです。

そして、日本では有名な産地となった箱根の「箱根細工」と呼ばれるものが、この「寄木」と「木象嵌」の総称であることから、さらに誤解を招いていると考えられます。

それでは、この二つをそれぞれにもう少し詳しく調べていきます。

「寄木細工」

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寄木細工は、様々な種類の木材を組み合わせ、それぞれの色合いの違いを利用して模様を描く木工技術であり、箱根の伝統工芸として200年の歴史を持っている、日本独自の技術と言えます。

その歴史を紐解けば、さらに静岡の地にその発祥が伺えます。

時は江戸時代、三代将軍徳川家光は、駿府賎機山麓(現在の静岡市浅間町)に浅間神社を造営するにあたり、全国から宮大工や漆職人を集め、その建設に当たらせました。

これらの職人たちは、浅間神社が完成したのちも、この静岡に住み着いて、漆器や指物(さしもの)の鏡台、針箱、雛具、塗り下駄などを代々家業として作るようになりました。

(*指物(さしもの):木材を組み合わせて作った箱・家具・建具など。特に、金釘(かなくぎ)を使わず〈ほぞ〉などの技法を用いて組み立てるものをいうことが多い。日本で極度に発展し、技術者を指物師とも呼んでいる。)

寛保二年(1742年)の作品と言われる駿府重箱には、寄木の萌芽ともいうべき細工がすでに行われていたことを伺わせ、この時代には二等辺三角形を組み合わせた単純な柄が、やがて年月と共に不等辺三角形の複雑な形へと発展していきました。

前者の単純な柄を〈種寄木〉と呼び、後者の複雑な形を〈乱寄木〉と呼び今に伝えられています。

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このように高度な指物の技術と寄木の芽の段階ともいえる二つの技術は天保10年(1839年)に箱根の指物師に伝えられたとされ、「箱根物産史」によると明治8年~10年の頃に静岡の寄木技術を学んで帰った亀田長次郎により箱根指物の表面に寄木の連続模様を用いて加飾し、当時の箱根指物職人たちに大きな影響、刺激を与えたと言われています。

そして、この寄木細工を用いた指物製品は、箱根の湯治客を相手にした土産物として発展を遂げる一方で、静岡の寄木細工は歴史と共に衰退し、今日寄木細工は「箱根細工」とも呼ばれ箱根の技術となっていったと考えられます。

箱根の寄木細工は単純・複雑な幾何学模様を〈寄木〉の技術で作り出し(種板)、その断面を大鉙(カンナ)で削りだすことによってできた薄い模様入りの木片を表面に貼ってできた製品と、この種板そのものを加工した製品の総称なのです。

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さて、寄木細工が単純な幾何学模様で装飾されていたのに対し、より絵画的に曲線を取り入れた模様を表現したいと努力してできたのが、箱根象嵌と言われています。

けれど、木象嵌はそのはるか以前からあった技術であり、今日の日本ではその古い技術がほとんど伝えられていないことで、象嵌と寄木の違いがはっきりとしないまま、現在に至っているのです。

「木象嵌」

木象嵌は古代オリエント文明に発祥されたと伝えられ、およそ3000年から4000年の歴史のある世界的な技術です。

長い歴史の中で、世界各地に伝えられ、それぞれの文化と共に発展してきました。

現存する最古の木象嵌作品は、紀元前13世紀に遡りツタンカーメン王の副葬品であるスツールであり、こちらはエジプトの博物館で今もみることができます。

ツタンカーメン椅子

日本の木象嵌は、飛鳥時代にシルクロードを経由して伝えられたものが中国より渡ってきました。

正倉院の宝物の中には、この時代に製作されたものが今も残っており、「木画」と呼ばれて、展覧会などで一般にも公開されています。

記念切手にもなっています。ダウンロード (3)

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しかしながら、この後、木象嵌の技法は衰退を辿っていき、歴史上にほとんど出て来なくなってしまいます。

この原因については諸説あり、「遣唐使廃止に伴う原料の輸入がこんなんになったため」、「漆の普及により螺鈿(らでん)細工や蒔絵(まきえ)が発展し、その豪華さが木画を凌駕したのではないか」とも言われていますが定説ではありません。

嵌め込む素材が「木」であれば木象嵌となり、「貝」であれば螺鈿と呼ばれる程度の違いしか技術的にない親戚同士のような技術ですが、「木」は地味な素材だったのかも知れません。

写真は螺鈿細工の入った小箱です。

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しかし完全に技術が失われていたわけではなく琴の龍舌(先端部分)や、刀の柄(つか)などに細々と使われ続けてきました。

そして、鎖国から開国へと気運の高まった江戸末期、西洋では万国博覧会が積極的に行われており、維新後の明治政府も1873年のウィーン万国博覧会から参加を始めました。

ここに一人の木象嵌師が積極的にこの万国博覧会に、自身の木象嵌作品を出品していたことはあまり知られていません。

名前は西村荘一郎氏と言い、彫込象嵌技術を使ったと思われる作品は、高度で精緻な技術を確立しており、この時代にも木象嵌の技術はしっかり伝えられていたことがわかります。

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明治時代にはこのほか、正倉院に残っていた他の木象嵌作品を研究した成果として、多くの優れた作品が世に送り出されているものの、高価な美術工芸品としてのみ存在したために、結果として世間に広く知られるということはやはりありませんでした。

世界的にも高く評価されたこれらの木象嵌作品が、世の流れに埋もれてしまったのは本当に残念なことです。

そして、この流れとは全く違う形で根付いたのが、前述の箱根の木象嵌なのです。

「箱根の木象嵌」

箱根の木象嵌は、それまでの木象嵌技法の主流である、「彫込み象嵌」の技法とは異なり、明治時代に入ってから発展した機械を用いた新しい技術です。

明治時代、産業革命によってもたらされた機械化の文明は、縫製ミシン、そして糸鋸(いとのこ)というマシーンを日本にも登場させていました。

そして、白川千石という木象嵌師によって、より早くより大量に木象嵌の製作が行えるようこの二つのマシーンを合体させた機械、「糸鋸ミシン」が箱根の地で作り出されます。

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この糸鋸ミシンを使い、寄木細工で培ってきた技術を進化させた「箱根木象嵌」は、明治中期以降、輸出雑貨の大きな柱として世に広まり、それは、極めて高い職人の技術によって支えられて来ました。

しかしながら、土産物や輸出雑貨としてもてはやされることはあっても、その美術的な価値を本当に理解されていたのかというと、残念ながら少々怪しい気がします。

箱根の木象嵌は、その精緻な技術よりもむしろ、機械を用いた量産化に重きを置いたため、結果として価値が下がって伝えられているのではないでしょうか。

価値の下落は、技術の継承を滞らせ、木象嵌師と呼ばれた職人も次々と消えているのが現状のようです。

そして知名度のある「寄木細工」の発展により、その陰に隠れているともいえます。

寄木と、象嵌、その技術の区別をもっと広く知ってもらう事こそ、「木象嵌」の真の価値を世に知らしめることにつながるのではないでしょうか。

投稿者プロフィール

Akio Shimada

1971年生まれ。北海道苫小牧市出身。日本各地で木工修行の後、スウェーデンで北欧の木工技術を学び、2007年日本人として初めて「スウェーデン家具マイスター」の称号を得ました。高い技術を誇る木象嵌と家具の製作をしています。

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